この世界には、「神の言葉」を伝えると称する人がいる。
それは昔から、今も、これからも変わらないだろう。
声は強く、言葉は整っている。多くの人がその声に耳を傾け、うなずき、時にはひれ伏す。
けれども、ひとつ確認しておきたいのは、「語られる神」が本当に神であるとは限らない、という事実だ。
もしもその「神」が自らを「神だ」と名乗りはじめたとしたら、むしろ私は一歩距離を置く。
神が本当に神であるならば、その気配は名乗らずとも伝わるはずだ。
むしろ、名乗ることでその何かは「神ではなくなる」のではないか。
真に神聖なものは、沈黙と余白を纏う。
それは形を持たず、名を持たず、ただ、そこに「ある」ものだ。
名前が与えられた瞬間、言葉は輪郭を持ち、輪郭は排除を生む。
そうして、語られた神は、語られなかった何かを失ってしまう。
わたしたちは、「神の言葉」を信じるとき、ほんとうは何を求めているのだろうか。
救いか、保証か、それとも、自分が正しいという確信か。
名乗らない沈黙のなかに、まだ聴こうとしていない声があるかもしれない。